木曜日の夕方と土曜の朝に思ったこと

年末に来て、急に様々な出来事がマスコミを賑わせている様子ですね。

私はトピックとしては世の中の出来事を認識してはいますが、なにせマトモなテレビが無い様なズレたスタイルなので、詳しくは知らないというのが実際のところです。

そんな私がテレビや新聞を見ていて思うことは、良くも悪くも全て出来事を二極化し語ろうとする事です。

『異常⇔正常』
『正義⇔悪』
『弱者⇔強者』
『勝ち組⇔負け組』

確かに明確で解りやすい論法ではありますが、本当にその考え方に真理は見えてくるのでしょうか?

話題の建築士は、どうやら発注サイドからの圧力に屈指、問題が発覚するまでの間、構造計算書の偽装を続けてきたらしい。

と!そういう事が明確になると彼への同情が集まり、次のターゲットと成る悪を探すことになる。

これはモチロン当然な事で、それを『おかしい!』と言う積りは毛頭無いのだけれど、ただいつもマスコミとそれを見ている私達は、常に弱者であり被害者であり正者の側に立っている。

まぁそれも当然のことで、間違っている事ではありません。

でも実際はそんなに簡単な構図なのでしょうか?


京都でまた小さな女の子殺されました。

殺した犯人は異常(狂っているという意味ではなく)者で、我々とは異なる人間性を持つ異端者だという事になっています。

まぁそれも事実で否定する積りはありません。

でも本当にそうなのでしょうか?彼が異常で普通の人は正常なのでしょうか?


彼や建築士が100%異常で、私たちがその対極に居るという前提に立っての報道と、それを真に受けて見ている我々は、いつの間にかそういう構図を当たり前に受け入れてしまい、その根本的なパターン化した図式と、意図的なバイアスが掛っている可能性に気が付かずに、表面的なセンセーショナルな事象のみに目が行ってしまいます。

私が言いたい事は、発生した事実の報道への文句ではなく、それを見る私たちの姿勢に問題があることだと思います。

寒天が身体にイイと言えば寒天がスーパーから姿を消し、いいオトナが集まってする話しはテレビのドラマとアイドルのこと…。

それは報道という一方通行の情報提供を、まるで神の啓示の様に信じ崇めているからの事だと思うのです。


十年以上前の松本サリン事件の時に、日本人の誰もが近所のチョット癖のあるオジサンを犯人だと信じて疑いませんでした。

でも結果はそれとは全く異なるものでした。

私達は過去にそういう教訓を持っているにも関わらず、それらに依存し信じる事を止め様とはしません。

日本人は基本的には無神論者であるというのは実は誤りで、私達の神は報道なのかもしれません。

誰もがそれを疑うことなく自分の中に入れ、影響を受け、自分のものとし、人生に大きく影響を与える…。

これは宗教そのものであり、また私達の報道に向かう姿勢でもあると、そう思う私は狂っているのではないかと、また同時にそう思える自分に少し安心を覚える私です。

世間の常識は、本当に常識なのでしょうか?

私はかなり怪しいと思っているのですがね。

って言うかさ、そう思うべきだと思うワケですよ。