実態として私たちの置かれている場所は…

061103

毎年、このイチョウの木の色付きを見て、秋の深まりを感じる私です。



友人のお父様がある斜陽な町の首長選挙に出馬するという事で、その決起集会なるモノに出席してきました。


私は本来、政治には関わらない事にしているのですが、友人とその素適な奥様への義理を果たす為にチョットだけその場に足を運んでみたという訳です。


しかし!驚きましたね。
ナニにって、その会場を埋め尽くすジジ・ババの数の多さに…。
地方の片田舎とはいえ、例によって箱モノ行政の恩地にあやかり、“××文化ホール”成るものは超ムダに豪勢でデカイ訳ですが、その数千人は入る会場が満員になる訳ですよ。
しかも!田舎なだけに車社会なのは当然ではあるのだけれど、その会場の駐車場は完全満車状態となり、それを予測していた主催者が取った対策は、周辺に無尽蔵な程ににある刈入れの終わった“田んぼ”を仮駐車場とする事。
スゴイですね。


でもね、そのそう決起集会のサブタイトルは『明日の**市えおつくる会』なのだけれど、そこでいう処の『明日』に生きる主役の姿は、その場にはホトンド無い…。


夢が無いんですよね。


友人の親父さんは結構いい人で、個人的には当選して欲しいと思うのだけれど、でも彼がそうなったとしても、この町が変わることは無い…。
そうと知っているからこそ、若い人はその場に居ないのです。
そりゃーそーだよ。居るワケ無いさ。
ジジイやババァの場の読めない浪花節の挨拶を聞いたって、おもしろくもなんとも無い…。


90年以降、世界も日本も変わったっていうのに、私たちに最も身近な最小行政単位においては、未だバブル以前の意識と呪縛の中に在る。


おかしく、理不尽で、整合性が無い事では在るのだけれど、それが実態なんですよね。